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地図の作製
どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場処に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔は殆んど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それと云うのも、このような測量をするのにはいろいろの精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかと云いますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬に依るのでありまして、しかもその測量は日本全国に及んでいるのですから、実に驚くべき事がらでもあるのです。それは今から百数十年も前のことでありますし、その時代にはどこへ旅をするのにも、すべて自分で足を運ばなくてはならなかったので、全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。そのようなことを思うと、この大きな仕事を自分一人でなし遂げた伊能忠敬の功績はまことにすばらしいものであったと云わなければなりますまい。そのほかに、ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに伴れて林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論せられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされたに違いないのですから、この点から見ても忠敬の仕事は大きな意味をもっていたと云わなければならないのでしょう。
ところで、忠敬がどのようにしてこの土地測量の仕事を始めるようになったかと云うことについても、ともかくも古い昔の時代であっただけに、特別な決心が必要であったのに違いないので、それらの事がらについて、次に少しくお話しして見たいと思います。
忠敬の前半生
伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太と云いましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国山武郡小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったと云うことです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記している処によっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向うことなどは思いもよらない処であったので、十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町の豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を恢復することに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造や薪問屋の営業などもあったと云うことです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに伴れて忠敬は救民の事業などをも興したので、終には尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに賞められて、苗字、佩刀をも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。
ところが、この間に忠敬は妻の死歿に二度も遭っていたと云うので、彼の前半生は決して幸福とは云われなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。
忠敬の学問修業
忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力を具えていたのでしたが、若しそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じうして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったと云わなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門の許を訪ずれて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだと云うことを思うと、これも実に一つの美談であると云わなければなりますまい。
高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないと云われたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教えたということで、それがしかし忠敬には却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、或る位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるのですから、実際にはいろいろの苦心が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくって見ました。そのなかには、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。ここではこれらの器械について一々説明しているわけにもゆきませんが、これらに対して忠敬はこまかい注意を加えてできるだけ精密な測量をめざしたのでした。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。
その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが精密には定まっていなかったのでした。まず比較的に広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当ると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのような処にもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当るという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか異っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
日本全国の測量
前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシヤの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷と云えば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身で殆ど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出遇い、それから倫宗と親しく交友したのでした。
蝦夷の測量を終ってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果したというのは、まことに驚くべきことであると云わなければなりますまい。その間に文化元年には尾張、越前より東に当る地図を完成し、同四年にはその後の測量にかかる地図をつくり、文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらは夫々三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大いさに相当するものです。何れにしてもこれだけのものを、僅かに幾たりかの門弟と共に完全につくり上げた功績はまことにすばらしいことであると云わなければなりますまい。
忠敬はともかくもこのようにして自分の志した大きな事業を成し遂げた上で、文政元年の四月十三日に江戸八丁堀亀島町の邸で歿しました。その際には、特に遺言して、自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く謝するためにせめてその墓側に葬ってくれと云ったとのことです。高橋至時は既にそれ以前の文化元年に歿くなって、浅草の源空寺に葬られていましたので、忠敬の遺骸もこの遺言に従ってその墓側に葬られました。しかしこの時には、その日本輿地全図と、ならびにそれに附隨している輿地実測録とがまだ完全に出来上っていなかったので、その完成を見るまでは忠敬の喪を公けに発表しないでおいたと云うことで、これらが出来上った後に、文政四年の九月四日に喪を発したのでした。
忠敬の著した書物としては、「国郡昼夜時刻対数表」、「記源術並びに用法」、「求割円八線表」、「割円八線表源法」、「地球測遠術問答」、「仏国暦衆編斥妄」などというのがあります。この外に「測量日記」二十八冊、「大日本沿海実測録」十四冊などがあり、これらはその測量の実際を知る上に、特に重要なものであります。下総の佐原町には、忠敬の旧宅が今でも残っていて、これらの書物や、測量に使った器械道具なども保存されているので、これはまことに貴重な記念物であります。
忠敬のすばらしい功績については、今日一般によく認められているのですが、明治十六年にはそれをよみして正四位を追贈せられましたし、また明治二十二年には東京地学協会で芝公園の円山に記念碑を立て、それには「贈正四位伊能忠敬先生遺功碑」としるしてあります。またその後、帝国学士院では、大谷亮吉氏に依嘱して、忠敬の事蹟を詳しく調査し、これが「伊能忠敬」と題する一書となって刊行されています。このようにして忠敬の遺した仕事はいつまでも大きな意味をもって記憶されてゆくことを考えますと、夙く学問の道に志した彼もまた安んじて瞑するに足りるのでありましょう。 | 2c2920e41142566f8a7f9b8620c1fc35a7fdaff7b90454a4797316a9a9ed9bbc | child-books | aozorabunko-clean | Jpan | 0-14 | cc-by | 3,588 |
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緒言
自然をふかく研究して、そのなかから新しい法則を見つけ出すということは、人間にとっての最も大きなよろこびであり、之によって自然の限りなく巧妙なはたらきを味わい知るということは、わたしたちの心を何よりもけだかく、美しくすることのできる真実の道でもあります。昔から偉大な科学者たちは世のなかの一切の栄誉などにかかわることなく、ひたすらに自然のなかにつき入ってその秘密をさぐることに熱中しました。そこにはいろいろな苦心が重ねられたのでありましたが、それでも世界のなかで誰も知らない事がらを、自分だけがつきとめたというすばらしい喜びは、それまでの並々ならぬ困難をつぐなって余りあるものに違いなかったのでした。そして、このようにして科学は時代とともに絶えず進んで来たのでしたが、それが今日どれほど多く世のなかの人の役に立っているかは、誰も知っている通りであります。この事をよく考えて見るならば、わたしたちがふだんの生活において科学を利用して非常な便利を得ているにつけても、今までの科学者たちの多大の苦心に対して心からの感謝をささげないではすまないのでありましょう。
ところで、そのなかでも特に深く想い起されるのは、このような科学の進むべき正しい道をはっきりとわたしたちに示してくれた最初の科学者のことであります。科学は自然におけるいろいろなはたらきを研究してゆく学問であることは、上にも述べた通りであり、またそういう意味での自然の研究はごく古い時代からあったには違いないのですが、実際にその研究をどのような方法で進めてゆくべきかと云うことを明らかにしたのは、十六世紀から十七世紀の前半にわたってイタリヤで名だかかったガリレオ・ガリレイであったということは、今日一般に認められている処であって、その意味でこのガリレイは自然科学の先祖とあがめられているのです。それで私はここで幾らかのすぐれた科学者の事蹟について皆さんにお話しして見ようとするのに当って、まずガリレイのことから始めるのが、当然の順序であると考えるのです。
ピザにおけるガリレイ
ピザというのは、イタリヤの中部からやや北方にある都会で、そこにはヅオモ大寺と呼ばれる大きな寺院があり、そのなかに名だかい斜塔が立っています。十六七世紀頃にはかなりに盛んな町であったのですが、ガリレイはこの町で一五六四年の二月十五日に生まれました。父はヴィンセンツォ・ガリレイという人で、その家は以前にはイタリヤの貴族であってフィレンツェという都市に住んでいたのでしたが、この頃には零落してピザに移住していたのだと云われています。それで生活にも余裕がなかったので、父はその息子のガリレオが育つにつれて、将来は商人にでもして家を興してゆこうと考えたのでしたが、どうも息子が学問を好むので、ピザの大学で医学を学ばせることにしたのでした。ところがガリレオは医者になるのも好まなかったらしく、幼年の頃から好きな数学の講義を廊下で熱心に立ち聞きしているという有様なので、或る公爵家の家庭教師がそれを知って数学と物理学とを学ばせるように父親をも説得したということです。これで見てもガリレオが生来純粋の学問をどれほど望んでいたかがわかるわけです。それでともかくもガリレオは喜んで学業に励みましたが、一五八九年になって、或る侯爵の推薦でこのピザの大学の数学教授に任命されました。それが僅かに二十五歳のことでありますから、彼の学才のいかにすぐれていたかが想察されるのです。
さてガリレイはその後一五九一年まで二年間この大学の教職に就いていましたが、その間に既にいろいろの研究にとりかかり、特に有名な自由落下の法則をまず最初に見つけ出しました。之はいろいろの物体が地球の上で自由に落ちる場合に、その速さがどう変ってゆくかを示す法則なのです。この問題について、その頃まではなお一般に昔のギリシャ時代の哲学者であったアリストテレスの説が信ぜられていたので、それによると比重の大きいものほど速く落ちるというので、例えば鉄片と木片とを同時に落すと、鉄片の方が遥かに速く落ちるということになりますが、ガリレイはそれを疑って、ともかく事実をたしかに突きとめなくてはならないと考えて、いろいろ実験を行って見たのでした。この実験をピザの斜塔で行ったということが話には伝わっていますが、それにはどうも確かな証拠はないようです。しかし、何れにしても、そのような実験からガリレイが自由落下の法則を見つけ出したのには違いないのでしょう。つまりガリレイは最初から科学では自然の事実に基づかなくてはいけないという信念を強く持っていたのでした。
もう一つ有名な伝説として、ガリレイがピザの大寺院のなかでその天井からつり下げられている吊灯の揺れるのを見て、その往復する時間が揺れ方の大小に係わらないことを見つけ出したということが話されて居り、之は彼の学生時代のことだと云われていますが、之もよほど疑わしいので、現在この寺院にある青銅の吊灯にある銘を見ると、それより数年後の日附がしるされているのです。ですからこの伝説そのままはやはり信ぜられないのですが、同じく実験の上からガリレイが振子の揺れ方に関する法則を見つけ出したということだけは確かだと考えられています。ここでも彼は事実をいろいろ調べてその法則に到達したのに違いないのです。
この頃には時計といってもごく粗雑なものしかなかったので、その後は医者が病人の脈搏の速さを測るのに、かような振子をつかった脈搏計というものをつくって、それを使ったそうで、これはなかなかおもしろい事がらだと思われます。
壮年時代
ピザの大学でガリレイは教授ではありましたが、その俸給はごく少くて、ようやく自分一人が生活するにも足りない程度でした。ところが一五九一年に父が歿くなったので、その家族を扶養しなくてはならなくなり、その儘では過ごすことができなくなったので、そこで以前にピザにゆく時に世話になった侯爵がまた彼のために奔走し、そのおかげで翌年バドーヴァの大学に転任することになりました。
パドーヴァの大学にはその後十八年間在職しましたが、この時期こそガリレイの生涯において最も幸福な、また最も精根を尽して研究に専心することのできた時代であったのでした。その頃彼の学識の高いことはヨーロッパの諸国に広く伝えられたので、その名声を慕って諸国からたくさんの学徒が集まって来て、その講義は千人を容れるだけの大講堂で行っても、なお狭くて収容しきれない程であったということでした。ところがそうなると、授業に費す時間がどうしても多くなって、それだけ自分の研究が妨げられるので、彼はようやくもっと自由の時間をもつことのできるような地位を望むようになり、一六一〇年になって再びピザに戻り、今度はそこで最も名誉のある「大公国の第一哲学者」として迎えられました。
パドーヴァ時代にガリレイは、コペルニクスの書物を読んで、その学説の正しいことを感じ、自分でも之を研究してみたいと望んだのでした。コペルニクスという人はポーランドの国の僧侶であったのですが、イタリヤへ来て学問を修め、その後帰国してから、有名な地動説を称え、その書物は一五四三年に彼の没する直前に出版されて、それから世に広まったのでしたが、その頃の宗教家のはげしい非難に遇って、殆んど禁止の運命に置かれていたのでした。宗教家の反対というのはキリスト教の聖書に、我々人間は神にかたどってつくられたものであり、そしてこの人間の住んでいる地球は宇宙の中心にあって、あらゆる天体はそれをめぐっているということが記されているのに、コペルニクスの地動説では、太陽のまわりを地球が廻っていると説くので、これは神聖な聖書にそむく虚偽異端の説であるというのでした。ガリレイは併し、この宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さとをいとも驚くべくもの語るものであって、之を禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、寧ろコペルニクスの説を肯定しようとしたのでした。併しその頃の宗教家たちには、そのようなすぐれた思想のわかる筈はありません。かえって自分たちの狭い考えに捉われて、依然として之に反対していました。
ところが、その当時ドイツにヨハンネス・ケプラーというすぐれた若い学者があって、オーストリーのグラーツ大学で数学の講師をしていましたが、この人が惑星の軌道について研究した結果をガリレイの許に送って来ました。このケプラーは有名な惑星運動の法則を立てた人ですが、その仕事はずっと後に完成したので、この時の研究というのはそれ以前のものに過ぎなかったのですが、それでもガリレイは之に非常な興味を感じ、彼に親愛に充ちた返書を送りました。そのなかには、「私はコペルニクスの運命を恐れています。彼は少数の人たちからは不朽の栄誉を得たとしても、愚者に充ちた大多数の民衆にとっては軽蔑と汚辱との対象にしか過ぎないでしょう」と云う言葉が記されています。
その後ガリレイは天体観測を自分で行おうと考え、オランダで発明された望遠鏡の話を聞いて、それと同様のものを製作し、望遠鏡でいろいろな星を観測しました。之は一六〇九年のことで、その結果として月に高い山のあることや、銀河がたくさんの星の集まりであること、木星には四つの月が附随していること、金星、水星が月と同じように盈ち虧けを示すこと、太陽に黒点のあることなどを見つけ出し、それらの事がらからコペルニクスの説の真であることをますます確信するようになりました。
宗教裁判とその晩年
ところが一六一〇年に、ガリレイがピザに帰ってからは、その地がローマ法王の直接の管下に属するだけに、ますます宗教家たちの反対が強くなり、異端説を主張するのをひどく責めるようになりました。その間にガリレイは、その誤解を説き、また科学と宗教との異なることを示そうとしてあらゆる努力を費しましたが、それは到底当時の人々の耳には入らなかったので、また中にはガリレイの名声の高いのを嫉む人々の策謀などもそれに混って来て、遂には大僧正の命令で地動説を称えてはならないということを警告されました。之は一六一六年のことでしたが、その後も併しガリレイは自分の信念だけは変えませんでした。併しただ当分のうちはできるだけ事を荒立てないように黙って過ごしましたが、数年経てからは事情もいくらか違って来たので、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し一六三二年に之を出版しました。
ところがこの書物についてある僧侶がローマ法王に讒言したので、法王は宗教裁判所に審査させることになり、その結果この讒言は通らなかったのでしたが、ガリレイは之によって大僧正の以前の警告を無視しているという判決が下されて、ローマに出頭を命ぜられました。ガリレイはこの時既に七十歳に近い老年で、おまけに病身で衰弱していましたが、その冬の寒い季節に止むなく旅に出かけ、翌年の二月にようやくローマに到着しました。併し疲労が甚だしいので暫くの間静養が許され、四月になって裁判所で審問が始まりました。
この審判の結果は、ガリレイの書物の領布を禁じ、地動説を放棄することを条件として閑居を命ぜられたので、その宣告の日には自分でその判決文を読んで宣誓のために署名をさせられたのでした。それからガリレイはフィレンツェの自分の家に帰って、そこに閉じこもって晩年を送りましたが、この間の彼の生活は実に寂しい有様ですごされました。その一人娘のバージニアが彼の病苦をやさしく慰めはしたものの、その後まもなく彼に先き立って没くなりました。でも、ガリレイの唯一つの慰めはその科学上の研究にあったので、これ迄に行ったいろいろな研究をまとめて、それを一六三八年に出版しました。之は普通に「力学対話」と呼ばれていますが、以前の「天文対話」と同じように問答の形式に書かれているので、そこに始めて科学研究の正しい道が示されている点で非常に重要な書物なのであります。
ところが、ガリレイ自身はそれ以前から眼をわずらっていて、この書物が出版された頃にはもはや両眼とも全く盲目になっていて、せっかくの自分の書物を見ることができなかったと云うのですから、実に惨ましい極みでもありました。それでも彼の精神は最後までしっかりしていたとのことで、以前からガリレイのためになみなみならぬ心尽しをされたトスカナの大公爵はいつも彼の病床を見舞われて慰問をなし、有名な詩人ミルトンなども彼を訪ずれました。そしてその病床には最も忠実な弟子であったヴィヴィアニ及びトリチェリが絶えず傍に侍していたということです。かくてガリレイは一六四二年の一月八日に、七十八歳の高齢でこの世を去りましたが、一生を科学のために尽した満足をもって安らかにその生を終ったのでありましょう。ガリレイの死後にも寺院はなお迫害を加えていたのですが、後の時代になってはかえってそれとは反対に誰しもがガリレイの不朽の功績をたたえるようになったのですから、この事はあらゆる人々にとっての絶大な教訓でなければなりません。つまりそれはガリレイが何等の私心もなく、ひたすらに真理のために尽した偉大な仕事のおかげによるのです。しかも科学の上での真理は永遠に消え失せることもなく、人間の社会が進めば進むほど、ますますそのなかにすばらしい輝きを増してくるようになるのです。今ではフィレンツェの聖十字院のなかにガリレイの立派な墓碑が立てられ、博物館にはその立像が置かれ、彼の製作した望遠鏡やその他の器械が陳列されて、そぞろに彼の面影を偲ばしめています。 | ca1906ec2b5a076b4a33ad2581509332e05425df36ff6e62f8b049ca930a1f0f | child-books | aozorabunko-clean | Jpan | 0-14 | cc-by | 3,863 |
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科学と技術
今の世のなかで私たちの役に立っているいろいろな産業技術や、それと関係しているさまざまの問題のもとは、いずれも科学の上での深い研究にもとづくので、その意味で科学と技術とはいつも密接につながり合っているのです。現在では、そういう科学や技術がすばらしく進んで来ていて、私たちが何をするにもそれらのおかげを蒙らないわけにゆかなくなっているのですが、今から数百年も前の時代にさかのぼると、科学や技術もまださほど進んではいなかったので、一般の世のなかの人たちもそれらを今日のように重くは見ていなかったのも事実であります。おまけにその頃には科学や技術が西洋では多少とも進んで来てはいたのですが、我が国には全くの実用的な技術の外には、学問としての科学などはまるで無かったので、学問と云えば昔の聖賢の書に通ずると云うことが主にせられていたのですから、この時代に最初にそういう道に進むということがどれほど難かしかったかは、恐らく想像以上のことであったに違いないのでした。ところで、ここでお話ししようとする平賀源内は、江戸時代に今からは二百十余年ほど前に生まれた人なのですから、おまけにそれもさほど高くない家に育ったのでしたから、普通ならばその儘で終る筈であったのですが、どこかに科学や技術を好む性格をもっていたと見えて、その頃としては実に驚くべきほどのいろいろな仕事をしたので、そういう点から見て、いかにも非凡な人物であったと云わなくてはならないでしょう。それで源内がどんな事をなし遂げたかと云うことについて、次にざっとお話ししてみたいと思うのです。
平賀源内の生涯
平賀源内は讃岐国志度浦の新町で生まれました。その年ははっきりしないので、後に安永八年に歿した際に、年齢が四十八歳であったとも云い、また五十一歳、又は五十七歳であったとも云われていたので、どれが正しいかわからないのですが、位牌には五十二歳と記されているそうで、この五十二歳を採れば、享保十三年に生まれたことになるのです。父は茂左衞門國久と云い、高松侯の足軽であったと云うことです。平賀家の古い祖先は平賀三郎國綱と称し、その子の國宗が奥州白石に住んでいたことから白石という姓を名のっていたのが、後にまた平賀姓に復したのだとも伝えられています。何れにしても源内の生まれた頃には、身分も低かったのですから、そのなかから学問好きの源内が現れたと云うのは、一つの驚くべき事がらにはちがいありますまい。
幼名は四方吉と云い、後に傳次郎、それから嘉次郎とも称しました。生長してからは國倫と称し、字を士彛と号したのです。元内又は源内というのは通称で、そのほかにいろいろな号をその著述の上では使っています。鳩溪、風來山人、天竺浪人など、そのなかで多く用いられたものでした。
前にも記しましたように、源内の生まれた頃には世のなかでは儒教や仏教や神道が盛んで、それらに属する古い書物を習い覚えることが一般の慣いであったのでした。またその半面には、名だかい西鶴の浮世草紙に続いて、いろいろな読み本や、洒落本などと称えるものがたくさんに出はじめた頃でもあったのでした。ですから源内の眼にもそういうものが触れないわけではなかったので、現に源内自らも後年になってたくさんの滑稽本や洒落本を著しているのですが、それでいて他面にはいろいろな学問の道にも進もうとしたのですから、その頃として実に多芸多才な点で稀に見る人物であったと云ってよいのでしょう。
源内が学問を志すようになったのは、幼少の頃から藩の医者に接近していたことや、また薬園に勤めて本草学に興味をもつようになったのに依ると云われていますが、ともかくも生来そういう学問を好んでいたには違いなかったのでしょう。それで年が長じてから長崎まで赴いて、そこで熱心にオランダ語を学び、オランダ人について薬物をいろいろ研究したのでした。このような本草学や薬物の研究が源内の学問の道への出発点となったのでしたが、源内はその後あらゆる方面の知識を修めようと志したのでした。それで、やがて江戸詰となって江戸に来てからは、林信言や三浦瓶山について漢学を修め、賀茂眞淵から国学を学び、服部南郭や石島筑波から修辞を習い、更に江戸幕府の官医田村藍水から本草学を一層詳しく学び、その間に当時名高かった杉田玄白、中川淳庵、太田蜀山人、松田元長、千賀道有などと云う人々と親しく往来して、いろいろな見聞を広めたので、その学識もあらゆる方面にわたり、これが明敏な彼の性質と相俟って、一世にその多技多能を謳われるようになりました。宝暦十一年に俸禄を辞してからはどこにも仕えなかったので、なかには彼を招こうとする諸侯もいろいろあったのでしたが、特別な仕事のほかはそれに応じなかったと云うことです。しかしその間に自らは貨殖の途を講じて、いろいろの計画を立てましたが、これにはいつも成功しなかったので、それで煩悶しているうちに、世のなかに対する不平不満が多くなり、それをどうにかして晴らそうと思って、たくさんの戯作をつくり、そのなかで自分の欝憤を晴らそうともしたのでした。源内ほどの多芸の人も時世がそれに適応しなかったことによって十分にその手腕をふるうことのできなかったのは、まことに遺憾と言わなければなりますまい。
それにしても源内は、その一生の間にいろいろの仕事をしているので、それについて次に少しくお話して見ましょう。
源内の遺業
源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、既に記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教をうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などと云う人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないと云うので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。
また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、緑青、明礬、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起して、それには大いに成功したと云われています。この炭焼を始めたのは少し後の事がらで安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の新庄侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を視まわったこともあるとのことです。
源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那交趾の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを建白したとのことです。また金唐革とか、紅革などと云われるものを製作したり、伽羅の木で源内櫛というのを作ったり、硝子板に水銀を塗って自惚鏡という鏡をも作りました。
このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、更に驚くべきことは、その頃オランダ人の持ち来した考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことであります。そのなかには先ず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためなのでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは火浣布というのとエレキテルと云う器械との二つでした。
この中で、火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣れるようにとれてしまうと云うので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいと云うので、香敷に多く使われたということです。
エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記した処によって自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけて廻すようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの廻転につれて廻るようになっており、それと共に調帯が硝子の円筒と銀箔の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたと云うことであります。安永五年と云えば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたと云うことは、まことに著しいことであったと云わなければなりますまい。
このほかに、源内の行った仕事としては、西洋の油絵の描き方を会得して、それを人々に伝えたり、また田沼侯のためにオランダ語の翻訳に従事したりしたことです。その著書としては、本草に関するものがたくさんにある外に、農作物、物産に関するものもあり、火浣布、陶器、寒熱昇降器などの説明もあり、また他面には多くの滑稽本、洒落本、及び浄瑠璃の作品があるので、これ等は実は源内があらゆる方面においてすぐれた才能をもっていたことを示すものであります。しかしそれにも拘らず晩年には甚だ不遇であったので、殊に安永八年には図らずも罪を得て十一月二十日に牢獄につながれることとなり、十二月十八日に獄内で死歿したと云うことです。この罪を得た原因についてもいろいろの説があって、どれが本当かわかりませんが、ともかくその際に人に刄傷を加えたのは確かなようです。その墓所は江戸、浅草橋場町の総泉寺と、郷里の志度浦の自性院とにあるのですが、杉田玄白がその碑文のなかに、「非常の人あり、非常の事を好む。噫非常の人、遂に非常に死す」と記しているそうです。ともかくこのように平賀源内はその当時において稀に見る非常の人であったに違いないので、しかし一般の人々に先だって彼が科学や技術の道に進んだことは、いつ迄も忘れられない事がらなのでありましょう。この点を尊重して大正十三年には源内に従五位を追贈せられたので、彼もまたこれによりて安んじて瞑することができるのでありましょう。また現に彼の遺品としては、磁針器と平線儀とが香川県の教育会議所蔵として残っており、エレキテルの一つは逓信博物館に、もう一つは志度町の平賀家にあり、金唐革張りの手文庫が秩父の久保道三氏の許にあるとのことです。私たちは今日において遠い以前の源内のことを想うと、そこにいろいろな感想をもたないわけにゆかないのでしょう。 | 1af3d42df88b83f71dfac29b503dde345b3b42b8f1b3bd699dcea65a5019db1d | child-books | aozorabunko-clean | Jpan | 0-14 | cc-by | 3,375 |
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Dataset Description
This dataset is part of the BabyLM multilingual collection.
Dataset Summary
- Language: jpn
- Script: Unknown
- Number of Documents: 1251
- Total Tokens: 9976523
Tokens Per Category
- child-books: 9685470 tokens
- educational: 291053 tokens
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