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「日本の伝統的木造建築の黄金時代は、いつのころだと思うか?」と建築史の講義に先立って学生たちに質問すると、さまざまな答えが返ってくる。 |
今でこそ「近代和風建築」という言葉が(少なくとも建築史の世界では)普及し、全国的に調査も行われていますが、25年ほど前はこんな状況だったわけです。 |
同書ではすでに、近代和風が古社寺保存法(明治30年=1897)に代表される伝統建築への理解の進捗に影響を受けて発展し、寺社に限らず駅舎、劇場、銭湯など広範な建物に和風意匠が取り入れられたこと、明治から昭和に至るにつれて和風を強調する傾向が強まること、銘木を使ったり細工に凝るなど豪華さを演出することなど、その特徴を指摘しています。 |
ただ、そこで取り上げられた建物は関東のものばかりだったので、関西に住む私たちは、少しピンとこないところがあったのでした。 |
今でも一般の方々のあいだには「近代和風建築」という概念が浸透しているとは言えません。今回取り上げた近代和風建築も、“古い建物だから中世のものだろう”などと思われているのかも知れないのです。 |
木造建築=古い、という観点を外して見ると、いろいろな発見があるかも知れませんね。 |
シリーズ的に注目している亀岡末吉ですが、今回は2つの門を取り上げます。 |
どちらの寺院も火災からの復興事業で数多くの堂宇を再建したのですが、その中に門も含まれていました。 |
東本願寺は、幕末の蛤御門の変(1864年)で伽藍を焼かれ、明治維新後、再建に着手します。東面して並ぶ御影堂と阿弥陀堂は、近代の巨大木造建築の代表格です。敷地の北東に開かれた菊の門は、明治44年(1911)に造営されました。 |
扉に大きな菊文が付いているので、この名称があります。菊文は、かつて徳川家康が寄進したものだそうです。 |
しかし、なんといっても「亀岡式」らしいのは、扉の透かし彫りです。 |
菊の門は切妻造に軒唐破風を設けていましたが、こちらは入母屋造に軒唐破風を付けています。 |
2011年に登録有形文化財となり、それを機に2012年末まで修理が行われていました。 |
こちらは六葉。菊の門とは異なったシャープな美しさをたたえています。 |
亀岡が“光”を意識していたことを感じさせるのは、次のような部分にもうかがえます。 |
冬の午後4時頃に撮影したと思いますが、影が長く伸びて、細い連子をくっきりと映し出します。 |
これを見ると、やはり亀岡末吉は特異なデザインセンスを持っていたのだと確信します。 |
当時、東福寺では、山門(現存)の北に仏殿と法堂が並んでいました。ところが、この両堂を焼失してしまいます。その東北(図・左斜め上)にあった方丈と庫裏も焼けました。図で分かるように、お寺の中心部分を失ってしまったのです。 |
再建事業は、こののち昭和9年(1934)の本堂(仏殿と法堂を兼ねる)落慶まで、半世紀余りを要することになりました。 |
最初に竣工したのは方丈で明治23年(1890)のことでした。明治42年(1909)には方丈の南の門である恩賜門が、翌43年(1910)には庫裏が再建されます。 |
ちなみに、『明治天皇紀』第5、明治15年(1882)4月17日条には、次のように記されています。 |
当時の500円というと、現在の貨幣価値だと数千万円くらいになるでしょうか。 |
一般に方丈の建物は前面に広縁があり、その前に庭が設けられています。庭を挟んだ正面には、唐門が置かれることが多いのですが、この門は日常の出入りには用いられません。 |
恩賜門は、明治42年(1909)に竣工しました。檜皮葺の向唐門で、少し背の高い印象があります。 |
よく見ると、左右対称ではないのですね。その意味は分かりませんが、芸が細かいです。 |
江戸時代の建物も彫刻過多ですけれど、「亀岡式」はそれとは違っていますね。デザイン的には洗練されているし、左右対称の幾何学的な意匠です。また、切り紙のような透かし彫りは、光の効果を意識しています。 |
この自邸は、大正2年(1913)に新築されたもので、「絵巻物に見るような凝った建物」と言われ、巷間「吉田御殿」とも呼ばれたといいます。当時、あたりに民家は少なく、さびしい場所に建てられた“御殿”だったのでしょう。 |
廣岡幸義氏の研究によると、東を向いた玄関を入ると四畳半1間があり、その先に中廊下が伸び、廊下の右手(北側)には書院を持つ六畳間や八畳間、十畳間が続いていました。北には縁が廻らされており、庭が広がっていました。室内には、修学院離宮や西本願寺などと同様の意匠が取り入れられ、亀岡の研究成果の一端を示しているようです。 |
上の写真にある門も、修学院離宮などに見られる数寄屋風の門になっています。屋根は杮葺きとし、左右に木賊塀(とくさべい)という竹の塀を立てています。手の込んだもので、竹は1列ずつに上下を逆にして並べていきます。 |
細部の意匠にも気を使ったこの自邸には、亀岡末吉の研究成果が発揮されています。 |
亀岡末吉は、慶応元年(1865)に前橋藩士の子弟として生まれ、明治維新後は洋画を学び始めます。東京美術学校の絵画科に進んで日本画を習得し、明治27年(1894)に卒業しました。 |
その後、内務省の古社寺調査に携わり、明治34年(1901)からは寺社の修理に従事しました。明治40年(1907)、京都府技師に着任し、平等院鳳凰堂の修理などを手掛けます。 |
絵心があり、寺社建築の細部に通じているという経歴が、彼の建築設計にも生きてくるのです。 |
亀岡は、明治40年に京都府に赴任後、寺社の設計も行い始めます。再び廣岡氏の研究などを参照に、彼の設計した建築や主な増築部のうち、京都に現存するものを列挙してみましょう。 |
亀岡末吉の最初の設計は、明治41年(1908)、京都・東山の高台寺の南に建立された忠魂堂でした。「忠魂」という語からも分かるように、日清・日露戦争の戦没者慰霊のために建てられたものです。 |
2008年に、高台寺の境内整備によって、西京区の正法寺に移築されました。 |
正法寺は、阪急・東向日駅からバスで約20分。大原野神社の向かいにあります。 |
初層の蟇股。院政期から室町時代にかけての意匠を取り入れています。 |
先に東寺小子房(こしぼう)について書きました。今回は、その勅使門を見てみたいと思います。 |
東寺小子房は、昭和9年(1934)の建築で、東寺の中では新しい建築といえます。 |
その東に建つ勅使門ですが、『東寺の建造物』によると、小子房が建築された際に、かつてあった場所から「南方に移動」したと記されています。とすれば、明治16年(1883)の客殿などの建設時に一緒に建てられたか、大正4年(1915)の同修理の際に出来たものの可能性があります。ただ、明治28年(1895)の「東寺境内一覧図」には、当所の門は切妻造の簡素な門に描かれています。 |
ただ、『京都府の近代和風建築』では、形状、装飾などから、小子房と同時期に新築された可能性があると説いています(昭和9年築となります)。 |
勅使門は、あとに述べる細部の意匠からみても、大正時代に造られたか、昭和9年頃に完成したか、いずれかと捉えることができそうです。 |
全景写真では、この門の特徴はよく分かりませんが、近寄って見ると少し驚かされます。 |
少しさかのぼって、明治32年(1899)に竣工した旧武徳殿(京都市武道センター内)も似たような特徴を備えています。 |
武徳殿は、京都出身の建築家・松室重光が大日本武徳会から依頼され、その演武場として設計しました。明治32年当時、松室は京都府技師でした。 |
亀岡と安井は、京都府の社寺課に勤務し、寺社の修復などに当たっていた技術者でした。二人とも明治40年(1907)に府に入っています。大正2年時点で、同課の技術職の責任者は亀岡で、安井はその部下でした。 |
明治後期から大正、そして昭和初期にかけて、京都の寺社建築には府の技師が大きく関与していました。 |
残念ながら勅使門の設計が、彼かどうかは判然としないのですが、その華麗な装飾を見ると、当時の府の技術者がかかわった可能性が濃いといえるでしょう。 |
現在の建物は、昭和9年(1934)の建築で、東寺の中では随分新しいものですね。 |
実は、今日ここを訪れたのは、この房の勅使門を見るのが目的だったのですが、小子房も昭和の建物とはいえ、欄間や灯具など、細工が細かくて愉しく拝見できました。 |
ただ、勅使門の内にある房の玄関には唐破風が付いており、よく目にする禅寺の方丈とは趣が異なります。 |
室内も、方丈とはかなり違っており、欄間の彫刻などは非常に細やか、かつ華麗なものでした。襖絵は、堂本印象の筆になります。 |
お目当ての勅使門については、回を改めて書いてみたいと思います。 |
建物の構造をみると、柱と柱の間には水平に梁がかかっており、その梁は少しカーブを描いて虹のような形をしているので虹梁(こうりょう)と呼ばれます。 |
こちらは、妙心寺の庫裏(くり)。承応2年(1653)の建築です。 |
ふつう庫裏は背が高いので、妻の壁には、横方向に桁や貫、縦方向に束などが露出しています。最上部に二重虹梁が見えています。 |
同じく室町時代前期の建築とされる東福寺の東司を見てみましょう。東司(とうす)とは便所のことです。 |
東寺(教王護国寺)の南大門です。慶長6年(1601)のものです。この門は、もともとは三十三間堂の西門だったのですが、明治時代になって東寺に移築されました。 |
妙心寺のものは板蟇股を二つに割ったような形状です。一方、南禅寺のものは植物文様の彫刻になっており、手が込んでいます。桃山時代以後になると、このような笈形のついた大瓶束が多くなり、デザイン色を強めていきます。 |
随分と平面的になり、ぺったりとしたイメージです。笈形も含め、デザインはとても図式的になっています。 |
幕末、安政2年(1855)造営の御所の宜秋門です。一般公開の際、入口となる門。 |
寺社を訪ねて、屋根の妻の△の頂点(破風の拝みの部分)を見ると、彫刻を施した板が取り付けられています。これが「懸魚(げぎょ)」です。 |
本来は、棟木や桁(けた)の小口を風雨から守るためのガード板ですが、装飾的な意味合いを帯びてきて、さまざまなデザインがこらされるようになりました。 |
ところが、近年の建築史の本を見ると、懸魚は構造に関係ないせいか、あまり説明されていません。「見方」本でも3、4種類あることが図示されているくらいです。 |
けれども、ひとつひとつの懸魚を眺めてみると、実に個性的で、同じものは2つとありません。玄人的に見れば、デザインの優れているものと稚拙なものとがあるのでしょうが、私たちは暖かく見守っていきたいと思います。 |
建物も、細かい部分を観察することで古い新しいが分かる、というわけですね。 |
他に類を見ないような縦長の変わった形です。本当の魚のような形をしていて、「懸魚」(魚をかける)という語が出来たのもうなずけます。 |
現在の三十三間堂は、後白河上皇が建てたものが火災で焼け(建長元年=1249)、鎌倉時代の文永3年(1266)に建て直されたものです。 |
細部のプロ・天沼博士は、しかし、この懸魚を鎌倉時代のものとは判断しませんでした。三十三間堂は、文永年間に建築された後、室町時代(永享年間)、江戸前期(慶安年間)などに修理されています。博士の判断では、これは室町時代、つまり永享5年(1433)から行われた修理の際の作だという見立てです。永享の修理は大修理で、瓦だけでも8万枚も取り換えたのですから、腐食した懸魚を取り換えることもあったでしょう。 |
南禅寺勅使門は、御所から移築されたもので、もとは慶長18年(1613)に造られたもの。 |
この門と同じく、慶長18年(1613)の御所造営で作られ、のちに移築された門が大徳寺勅使門です。 |
これは猪目懸魚ですが、輪郭がくっきりと縁取られており、新しさを感じさせます。 |
南禅寺勅使門の脇にある中門の梅鉢懸魚。これも桃山時代のようです。五角形をしており、梅花をかたどった梅鉢(紋)に似ているので、この名があるのでしょう。 |
桃山時代は装飾が華美になりますが、伏見城の大手門を移築したといわれる御香宮神社の表門です。 |
因幡堂で通っている平等寺の本堂です。明治19年(1886)に改築されたものです。 |
ちなみに、今回は紹介しませんでしたが、神社の社殿にも懸魚が用いられているものがあります。 |
藤森神社は、戦前の社格でいえば府社なので、その北にある官幣大社だった伏見稲荷に較べると、格は高くはありませんでした。しかし、もとは伏見稲荷の位置にあったともいわれ、このあたりの古社でした。 |
伏見稲荷大社もなかなか興味深い神社なのですが、藤森神社もそれに負けていません。 |
駈馬神事は「都名所図会」巻五によると、次のように説かれています |
上のクローズアップを見ると、本殿の右上に木の生えた小さな塚が描かれており、「旗塚」と注記されています。 |
神功皇后が、いわゆる「三韓征伐」の帰路、ここに立ち寄り、戦さの旗と兵器を埋めたのがこの塚だといいます。つまり、ここが藤森神社の起源だということですね。 |
ここでは、イチイの異名である「いちのき」に敬称を付けて「いちのきさん」と呼ばれているそうです。 |
私も少し腰痛のきらいがあるので、これを知った時はうれしく、思わずお守りを求めてしまいました。 |
こんな腰痛と旗との関係が何かあるように思うのですが、今のところ思い付きません。 |
京都で“おむろ”というと「御室」、右京区の地名を指しています。「室」(むろ)に尊称の「御」の字をつけて御室としたわけです。つまり、偉い方の住まいという意味ですね。 |
仁和寺という名前も、光孝天皇の時代の元号「仁和」にちなんだものです。仁和は、西暦885年から889年までですから、平安時代ということになります。落慶は、仁和4年(888)、宇多天皇の時でした。宇多天皇は出家して住持となり、その後、門跡寺院として京都を代表する古刹のひとつになっています。 |
桜の名所などとして、京都の人にも馴染み深いお寺だと思います。私の母が通った小学校は、北野天満宮の南にありましたが、そこは仁和小学校。仁和寺とは随分離れていますが、市街から仁和寺に至る「仁和寺街道」が通っていた場所だったからだと思います。 |
京都の他の寺院と同じく、仁和寺も応仁・文明の乱で伽藍が焼失しました。 |
江戸時代になり、仁和寺第21世の覚深法親王は、伽藍の再興を企てます。将軍・徳川家光の上洛にともなって21万両を与えられ、仁和寺は堂塔の再建に着手します。 |
折しも、寛永年間(1624-45)に御所の建て替えがあり、いくつかの建物を下賜されることになりました。 |
ちなみに、日御門は南禅寺へ、西側南御門は大徳寺に移築され、それぞれの勅使門になっています。それらについては、別に書きましたので、読んでみてください。 |
このうち、現在残っているものは、紫宸殿(現・金堂)、清凉殿(現・御影堂)、台所御門(現・本坊表門)です。常御殿は宸殿にあてられていましたが、山内20数棟を焼いた明治20年(1887)の火災で失われてしまいました。現在の建物は、大正時代の再建です。 |
現存する3棟、金堂、御影堂、本坊表門は、いずれも慶長の御所造営(慶長18年=1613)に際して建てられたもので、ちょうど400年前の建造物ということになります。 |
国宝・仁和寺金堂は、もとの紫宸殿です。現在の京都御所の紫宸殿は幕末に造営されたもので、仁和寺金堂が紫宸殿遺構としては最古のものとなります。 |
もちろん、移築に際しては改築が行われました。同時代の史料にも、少し改めたところがあると記されています。最も目立つのは、屋根が檜皮葺から本瓦葺に変わったことでしょう。 |
ただ、外観を見ると、正面の七間はすべて蔀戸(しとみど)がはめられていて、往時をしのばす雰囲気をたたえています。 |
このあたりのことは、宇治・平等院の回に書きましたので、ご覧ください。 |
仁和寺金堂の垂木を見ると、2段ではなく3段になっています。これは三軒(みのき)と呼んでいます。あまり見掛けない凝った形式です。御所の紫宸殿では三軒を採用していたのでした。 |
ちなみに、古い建築で三軒というと、興福寺の北円堂が知られています。 |